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▽講演会(平成十六年四月十一日)より
家族、教育、国なおし―― 戦後の宿題を片づけるために ――
 
私はもともと新聞記者なんです(元『サンケイリビング新聞』編集長)。新聞記者として介護や育児の問題など、読者の声を国会や政府に届けているうちに、国会議員になったらどうかと勧められて、平成十二年に衆議院議員になりました。
初めのうちは新聞記者が議員になれるのかしら、と不安でした。でも、朝、五時に起きて子供たちのお弁当を作り、満員電車を乗り継いで、だれよりも早く出勤していました。やらなければいけないことが、たくさん出てきたのです。まず最初は教育問題でした。

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(3/3) 三、国なおし
▼「国なおしよねー」
 拉致問題は、産経新聞だけが二十六年間報道してきました。私も長年かかわってきました。ですから、国会議員になったとたんに、「拉致議連の副会長をやってください」と言われました。
 私もぜひこれは解決したいと思いましたので、いろんな資料を作って、国会議員一人ひとりを訪ねてまわりました。金正日が拉致の事実を認める前でしたので、「まあ、勇気と無邪気で走り回って、ご苦労さん」と言われたりもしました。国民の生命、財産、領土を守るのが国会議員の役割なのに、何を考えているのかと思いました。
 堪らない思いで横田早紀江さんたちとアメリカに行きました。本来は日本の国で解決することなのに、アメリカに訴えに行かなければいけない。こういう現状なんです。また四百人以上も拉致されたのではないか、という問い合わせが私たちのところに来ています。
 アメリカでは最初、冷たい反応でしたが、拉致は子供の誘拐とは違う、国家組織によって計画実施されて、百人以上の日本人が北朝鮮に連れ去られたままだ、と一生懸命に話しました。すると、アメリカ人はびっくりして世論も大きく動きまして、日米同盟の中で、アメリカは日本と共に拉致問題の解決をしていくという姿勢を表明してくださったわけです。
 アメリカ議会の帰り道、廊下を歩きながら横田早紀江さんは、深いため息をついて、「国なおしよねー」とおっしゃいました。
 国をまるで悪者のように教える教育、肝心なことの解決に対して、本当の怒りをもたない国会議員を当選させる国民、ほんとうに戦後の日本はどうなっているんでしょう。
 「国なおしよねー」という、その深いため息を忘れられません。
 
▼「強制連行あり」を○とする設問
 今年の大学入試センターでいろんな問題が出ました。外国人地方参政権が、まるでよいことのように扱われています。もう実験結果が出たのに、マルクス主義は素晴らしいというような問題もあります。そして、強制連行の問題です。
 私の娘が受験生だったので、センター試験の問題を見ますと、「強制連行があった」に○をつけさせる問題がありました。
 去年の九月二十三日、国連総会で川口順子外務大臣が拉致問題を訴えられました。そうしたら北朝鮮の代表団が、「日本は八四〇万人を強制連行しておいて、たった十人ほどのことを言う……」というような演説をなさいました。
 私は、これはすぐ反論するものだと思っていましたが、一週間経っても外務省も国会議員も反論しません。反論しないということは、国連の場で北朝鮮の言ったことが正しいことになってしまうわけです。そうしたら、日本は外交での交渉能力を失います。拉致問題も主張できなくなります。これは大問題だと思いました。
 それで私は、九月三十日、国会の場で川口外務大臣に、「これは事実ですか」とお尋ねしました。
 大臣は、「昭和三十四年に外務省が調べたけれど、そのような事実はない」という内容のお答えでした。当時は自由渡航でした。ただ一部、終戦の前に、戦時中の合法的法律、『国民徴用令』というのができて、それが朝鮮半島に適用されたことがありました。
 だから、強制連行の問題は×が正解です。百歩譲っても、不適切な設問として採点からはずしてほしいという記事を、私は書きました。
 
▼国を大切に思う心を育む
 そして、七十数人の国会議員の間を走りまわりました。今年の一月です。国会議員の方々も「おかしい」と抗議をして、一般の方たちも大学入試センターに抗議に行きました。
 驚いたことにセンター側の返答は、「教科書に載っていればよい。史実に基づいているかどうかは検討してない」と言うのです。信じられないでしょう。このことを報道したのは、産経だけです。
 これはスキャンダルではありませんか。歴史の問題に、歴史的事実かどうかは問題でない、というわけなんです! こんなことを平気で言っておいて、新聞でも、その他のマスコミでも問題にならない。また、その試験の問題を作った人の名前を公表してくださいと言うと、大学の先生たちが猛反対。「教育への不当介入を許すな」です。
 私の娘が友だちと強制連行について話していたら、友人は、「日本は強制連行をしたのよ。日本は悪いことをしたのに、隠そうとするイヤな国なんだ。フフッ」と笑ったそうです。自分の国を冷笑するような心を育てる教え方は、ほんとうに罪深いことだと思います。
 拉致問題も「おかしい」と皆なかなか言えなかったのです。今でも日教組は、「拉致問題を教えてはいけない。大国主義、民族主義、排外主義につながる」というようなことを言っています。
 なにも子供たちを偏狭なナショナリストにしようというのではありません。人として当たり前の気持ち、国を大切に思い、家族を大事に思い、世のため、人のために、正直、親切、勤勉に生きる、こういうことを大事にする人間を育てていかないと、この国はだめになると思います。
 
▼灼熱のインド洋で働く自衛官
 去年の夏、私はイラク、アフガニスタンへ、女性国会議員ではただ一人、全調査に行ってきました。インド洋では護衛艦「はるな」、補給艦「とわだ」にも乗せていただきました。自衛官の方たちは、炎天下で玉のような汗を流しながら英米など十カ国の艦船にオイルを補給していました。テロに屈せず働いている姿に、ほんとうに感動しました。世界平和というのは、どこかにあるものでなく、こうして現在進行形で常に努力をしながら、作りつづけるものだと思います。
 イラクでは、地雷が埋まっているし、地対空ミサイルで特別機が狙われています。自動車で移動しているときに、「一三〇キロのスピードで走らないと、自爆テロの車が突っ込んできますよ」と、亡くなられた奥克彦大使が一生懸命、私たちの安全に気を使ってくださいました。
 「お夕飯を食べませんか」と、バグダッドにいる日本人に声をかけますと、十何人来ました。中には、今回、人質になった方々のような、学生さん、ボランティアの方たち、そして、フリージャーナリストがたくさんいらっしゃいました。
 奥大使としては、危険だからそういう人たちに帰ってほしいと思われていたでしょう。けれども皆さん帰られない。ですから、奥さんは常に連絡をとっては、その方たちの生活ぶりや安全に気を使っていらっしゃいました。
 だから私は今、複雑な気持ちです。イラクで捕まった人質の方々が無事でいてほしいと願います。
 けれども、個人と国家の関係とか、ましてや「自衛隊を引き上げろ」という議論になってしまうと、それはちょっと待って、と言いたい。
 というのは、国際平和主義、協調主義の中で、イラクという場所に何ができるか可能性を、私は調べて回ったわけです。私だって命懸けで、テロリストに捕まるかもしれない、死ぬかもしれないという覚悟で行ったのです。
 調査中、サダム宮殿にも行きました。今、オペレーション・センターとして、各国の作業チームが使っています。大広間にバーッと机が並んでいます。それぞれの国の国旗があって、それぞれの国が情報をやりとりしながら働いているわけです。そんな時に、自衛隊を引き上げますというのは、おかしい。いろんな国の人質がいるのに、日本にだけ自衛隊撤退の要求をつきつけている。日本はどういう国と見られているのか。いろいろな角度から議論しないといけません。
 
▼家族は永遠の愛に結ばれて
 私がイラクへ出掛ける最後の晩は、家族そろってご飯を食べました。「最後の晩餐だ」なんて言いながら、夫が焼きそばをみんなに分けてくれました。娘が「冗談言わないで、お父さん!」と言って、パチッと写真を撮りました。
 私がイラクから帰ってきて成田に着いたその日、長女が滂沱たる涙を流して立っておりました。
 「お父さんが交通事故に遭った。早く行って!」
 病院に着きましたら、夫はほとんど意識不明の状態。私が手を握って、「がんばって!」と言うと、涙をひと粒浮かべて悔しそうに顔をゆがめました。そして、数時間後に脳死状態になって、五日目に亡くなりました。
 この世は、悲しみと残酷に満ちています。けれどもまた、同時に素晴らしい恵みにも溢れています。その五日間は、私たちにとって悲しく残酷で、同時に恵みに溢れている五日間でした。
 「今日あたり、もうお父さんは亡くなりますよ」と医師に言われたその日、長女が言いだしました。「体が死んだくらいで何よ! 魂はこれだけ繋がっているんだもの、離れるわけないよ!お父さんの喜ぶ生き方をしよう。いい子を産んで育てることだよ」と、弟と妹に言いました。
 息子は、「ほめてくれる人のいない人生なんて、もう無意味だと思えた。でもそうじゃないね。これだけ愛してくれたことが記憶にあるんだから、父さんの真似をして、社会人、家庭人になればいいんだ。愛は深まるばかりだよ」と言いました。
 亡くなっていくお父さんを前にして、愛は深まるばかりだよ、と。家族って、命ってそういうものですね。亡くなるというのは、悲しいことです。肉体が失われるのは、淋しいことです。けれども魂はいつも一緒になって、「幸せになれよ、幸せになれよ」と言ってくれているのです。
 そんな子供たちを見て、「残酷な中の恵み」ということを私は理解いたしました。
 
▼私の父・山谷親平
 先だって、子供たちが私の誕生日を祝ってくれました。カードに「お母さんの誕生日にいちばん大騒ぎしていたお父さんがいなくなって、騒ぐ気になれないね。お母さんがいつも言っていた、「『家族が一つ屋根の下で食事できる回数って、案外少ないね』という言葉が、今やっとわかりました」と娘が書いていました。
 これは、実は私の父(写真)がよく言っていた言葉なんです。父は山谷親平といって、日本で初めてのパーソナリティ、「絶望は愚か者の結論なりと申します……」と言って、ラジオの人生相談を担当していました。家では「山も谷もあるが、シンペーするな」って、冗談ばかり言っていました。
 父は、私が中学生の時に選挙に出ました。そして、負けました。借金をいっぱい背負って福井から東京に出てきました。早く借金を返そうと思って一生懸命、内職をしているうちに、母が過労で失明してしまったのです。
 それで、父が台所に立ちました。父は『世界の民族料理』という本を買ってきたんですね。ジャワ料理にミクロネシア料理……。父は加藤隼戦闘隊のパイロットだった時に、三回も撃墜されていて、体にいっぱい弾の破片が埋まっているのです。それで関節のあちこちが不自由なんですが、そんな手でお料理を作っていました。
 「ジャワって所は上機嫌がマナー。家族といえども上機嫌」なんて言いながら、いつも上機嫌の振りをするわけです。私は中学生ですから、そんな演技にムッとすることもあります。それである時、何か憎たらしいことを言ったんです。
 そうしたら父が、「苦しい時、優雅にやせ我慢。家族が一つ屋根の下で食事できる回数って、案外少ないよ」と、ポツッと言いました。
 若い時は、家族なんて鬱陶しいと思ったりして、その言葉もじきに忘れてしまいました。ところが二十年前、父が急性白血病で亡くなった時、「ご臨終です」と言われた、その時に思い出したのです。
 それから、その言葉がもう毎日のように思い出されます。父は生きていた頃よりも、亡くなってからのほうが、もっともっと私の背中を押しつづけてくれています。
 
▼結びに
 家族が保護尊重されることは大事です。また、私たちは、家族によって生かされていることを大事にしていかなければいけないと思います。家族こそ、国家を形成する最小単位ですから。
 マスコミの報道は、相変わらず年金かイラクばかり。夏の参院選にしても争点無き選挙と報道します。けれども本当の争点は、きちんとした健全な国家観をもった勢力が勝つことです。それによってのみ、教育基本法改正や憲法改正ができるのです。そうして戦後の宿題がやっと片づけられるのです。
 皆様方の日々の営みが、家族の営みが幸せで祝福されたものでありますように、と祈りながら、今日のお話を終わらせていただきます。
 ありがとうございました。
(東京大手町・サンケイプラザにて)
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