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対談「教育に国家観を取り戻せ!」
ジャーナリスト 山谷えり子 × ジャーナリスト 櫻井よしこ
 
はびこる自虐史観、学力低下、学級崩壊、過激性教育…。
「国家」を徹底して忌避してきた「戦後教育」によって荒廃した現場再生の道はあるか。

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(3/5) 不登校で「あるがまま」の「権利」!?
--- 山谷
 さきほど、櫻井さんが学校現場では優しさを強調する教育が行われているとおっしゃいましたけども、子供たちに対してもただただ「優しく」接する、つまり甘やかすような風潮が蔓延しているような気がしてなりません。
 その一例が、不登校です。うちの子供が通っていた小、中学校に不登校の子供たちが何人もいたので、「身の周りの友達で学校へ来なくなった子がいたら、手紙を書いてその子の家まで持っていきなさい」と言っていたんですね。ところが、肝心の学校の先生が、「不登校も子供たちの権利ですから、うちの学校ではそのままにしておいてあげます」と物知り顔で言うんです。そう言われると、親も友達も不登校になりつつある子供に何か働きかけるのは差し出がましいように思ってしまいますよね。
 なんで先生がそんなことを言うのか不思議で調べてみたら、文部省なんですね。平成四年に旧文部省は、「不登校はどの子にも起こり得る問題で、登校への促しは状況を悪化してしまうこともある」という見解を示した。見解自体は、不登校児に登校するよう働きかける必要はないとまでは言っていませんが、現場は、子供たちの「多様性」「個性」「権利」を過度に尊重する風潮とあいまって、働きかけなくてもいいという実質的な指導放棄に流れていったようです。
--- 櫻井
 不登校の子供に対して、周囲が学校に行かなくても構わないという態度で接していると不登校は高い確率でなおりません。いったん不登校の生活慣習・態度が身についてしまうと、登校させるのは非常に困難だからです。
 現場にさまざまな立場で関わる人たちが唯一有効だと考えている不登校対策は、不登校にしないという予防措置なんです。登校しなかった子供がいたら、その日のうちに家庭に連絡をして、先生が訪問し、「どうしたの」と聞く。お母さんとも話し合って、翌日は必ず学校に来させる。「この子は放っておいたら登校しない」という直感が働いたら先生や友人が連れに行く。授業出席が無理なら保健室登校でも構わない。学校を休ませないことが大切だと言われています。
--- 山谷
 昨年八月に文部科学省が発表した十四年度の調査では、右肩上がりだった不登校の子供の数が対前年度比で初めて減ったそうですが、それでも小中学生あわせて約十三万一千人、特に中学生は三十七人に一人が不登校です。
 文部科学省もようやく軌道修正しました。昨年四月、「今後の不登校への対応の在り方について」という報告の中で、平成四年の見解が「誤解」されて、「働きかけを一切しない場合や、必要な関わりを持つことまでも控えて時機を失してしまう」ケースがあったとして、不登校児の置かれた環境や事情に十分配慮しながら働きかけることや関わりを持つことの重要性を明確にしました。
 しかし、先日、ある公立中学校で不登校生徒への対応の責任者になっている先生から話を聞きましたが、教員向けの講習会などでは、いまだに「人生は長いのだから一年ぐらい休んでもたいしたことはない」とか「無理やり学校に来させるのは害でしかない」ということばかりが教えられると言っていました。文部科学省が不登校対策のため現場への配置を進めているスクールカウンセラーの中にも、同じように言う人がいるらしいです。
 逆に、積極的な予防措置で不登校を大幅に減らすことに成功した栃木県のような地域も出てきています。これからは、地域や学校の取り組みによって、差が出てくることになると思います。
--- 櫻井
 不登校は子供の権利だという捉え方そのものが、すごくいびつだと思うんですね。権利は責任や義務と裏表で、責任や義務を果たして初めて権利が保障されるわけですよね。親の脛をかじり続けて部屋に閉じこもって一生を過ごすなら別ですけど、不登校になった子供がそのままで、責任や義務を果たせる本当の意味で自立した人間になれるかというと、とても難しい。自立した人間を育てるのは、教育者の責務です。子供たちが、自ら道を切り開いて、人生を歩んでいく準備をしてやるのが教育者でしょう。その責任を放棄して、不登校も権利だというのは間違っていると思いますよ。
--- 山谷
 子供の「権利」「主体性」「個性」「多様性」を尊重する裏返しに、「強制しない」「押しつけない」ということがいまの教育現場のキーワードになっていて、躾教育もおかしくなっています。東京・板橋区の児童のお父さんから聞いたんですけれど、入学式で校長から「この学校では、強制を一切しません。おはようございますの挨拶も、手を洗いましょうとも言いません。だから安心してください」と言われたと驚いていました。授業の開始と終了の「起立・礼」もしない先生が増えて、なんとなく授業が始まったり終わったりしています。授業中に黙ってトイレに行く子供や廊下で遊んでいる子供を注意すると「人権侵害」だし、悪さをした罰に立たせるのも「授業を受ける権利の侵害」だからだめだと先生たちは指導されている。
 就学前の話ですが、「ふりーせる保育」も同じ流れですね。
--- 櫻井
 え、何ですか?
--- 山谷
 「一歳以上の園児にはおやつの選択の自由がある」「食事も選択の自由」という考え方の保育です。「ふりーせる」は、「自由」「安心」「自信」の英語の頭文字をとった造語だそうです。食事の時間も強制しない。保育園の子だから遊びに夢中になって、ご飯を食べない日もあるんですよ。保護者が「子供たちの発表会がみたい」と保育園に申し入れても、「それは保育士ではなく、子供たちの意思で決めるべきだ。各家庭で働きかけてほしい」と言われる。大人も子供も「平等」なんです。「ふりーせる保育」になってから、行儀も言葉使いも悪くなったと訴える保護者の声も聞きました。
 平成元年に幼稚園教育要領が改訂されて、同時に改訂された学習指導要領とともに、子供の「主体性」「生きる力」を重視することが謳われたんですね。それが現場では、「しかってはいけない」「押しつけ・強制はだめ」「子供たちのやる気がでるのを待て」「指導するよりも、子供たちの活動・学習の支援が大切」と受けとめられ、放任のような教育・保育をする幼稚園、保育園が続出しました。
 小学一年生段階での学級崩壊が一時、盛んに言われましたが、家庭での躾不足とともに、その一因になったとも言われています。子供たちが集団生活の規律を学ばないまま入学していくわけですから。
 こうした保育理念に、ジェンダーフリーを加えたのが、「ふりーせる保育」です。SMAPの香取慎吾さんの歌で大流行した「慎吾ママのおはロック」を運動会で踊るときも、母親がごはんをつくる歌詞がジェンダーフリーに反するといって、歌詞のないカラオケ演奏が流れるだけ。
--- 櫻井
 そこまでやりますか。
--- 山谷
 「ふりーせる保育」は千葉県松戸市から始まったんですが、一昨年、私が国会で取り上げたところ、福田康夫官房長官は「現実感覚から離れている。行き過ぎは良くない」「賛成しない」と答弁されました。でも、いまだに広がっています。
 幼稚園の教育要領は、批判が続出して平成十二年に改訂されました。「よいことや悪いことに気づき、考えながら行動する」、つまり子供に善悪の分別をつけさせるという元年の改訂で削除された項目が復活し、教師の役割も「適切な指導を行うようにする」と明確化されました。でも、「ふりーせる保育」は、文部科学省の委嘱を受けて日本女子社会教育研究会がつくった子育てのリーダー向け冊子「新子育て支援・未来を育てる基本のき」で、「自分を大切にすることを学ぶ先進的保育プログラム」としてしっかり推薦されているんです。
--- 櫻井
 教育の原点の一つは、強制だということを大人は自信をもって言うべきでしょう。もちろん、強制の仕方には議論はあるでしょうし、自主性を育てることも大切でしょう。しかし、そのバランスを考えず、すべてを子供の自主性に委ねてしまうのは、教育の放棄と無責任の裏返しだと思います。
--- 山谷
 学力でも、「読み・書き・計算」の基礎を繰り返し繰り返し、それこそ強制してでもやらせないと身につかないし、基礎学力がなければ子供自身が自主的に学ぶ力も応用力も育たないでしょう。
 櫻井さんは最近、国語教育の問題点を指摘されていますが、音読も学習指導要領から外れてやらなくなっていますね。もう一つ驚いたことに、学校図書や教材から伝記物や偉人伝が排除されていっているんです。現場でいろいろな先生から聞くと、伝記物や偉人伝が人権教育と差別撤廃教育になじまないから子供に読ませるのは好ましくないという考えが広がっているといいます。
 しかし、伝記を読んだからといって、将来国民を弾圧する権力者になるわけではないですよね。努力、工夫、知恵、失敗、忍耐、もののあわれ。そこには、いろんな生きていくうえでの「基本」が詰まっている。櫻井さんも別の場所で発言されていましたけど、偉人伝を読むと、自分も立派になりたいというエネルギーが溢れてきますよね。学校の図書館にどんな本が置いてあるか、一度全国調査をする必要があると思います。
--- 櫻井
 文化の断絶ということでいえば、文部省唱歌から「赤とんぼ」がなくなった。理由を聞いたら、もう赤とんぼがいないから(笑い)。「十五でねえやは嫁に行き」と歌詞にあるけれども、「現行民法上では十五歳では結婚できませんから」と真面目な顔をして言われる(笑い)。昔は六歳で元服した。千姫と豊臣秀頼は幼少時に結婚したわけでしょう。これは歴史事実なんですから、昔はこうだったんですよと教えて、「十五でねえやは嫁に行き」でいいわけじゃないですか。
 「われは海の子」もなくなりましたね。「磯辺の苫屋こそ」という「苫屋」というのが、祖末な掘っ建て小屋で差別用語になるからですって。こんなことでは文学小説も子供に読ませられなくなります。
--- 山谷
 「桃太郎」は、『おじいさんが柴刈りに、おばあさんは洗濯に』が固定的な性別役割分担を助長して性差別につながるし暴力的だから、ジェンダーフリーで主人公を「ももこちゃん」にして、鬼も退治するのではなくて、仲良くする結末につくりかえて教えるようなことまでしていますね。高校教科書には、「ももからうまれたももこちゃん」絵本を保育所で読むという一文が載っています。そういう人たちは、文化とは何かがわかっていないし、人間とは何かがわかっていない。ただ薄っぺらな理念にとらわれて、文化や宗教的情操心、歴史というのを自分たちの都合のいいように変えていっている。こういう運動も人間の精神を貧困にしていきますよね。
--- 櫻井
 文学にもいろいろな条件をつけて排除して、子供たちに教えないし、読ませない。言葉そのものも難しいからといって教えない。そうして物事を考えるための素材としての知識や情報が減っていけば、表現したくても、言葉がないからどう表現したらいいかわからないし、その言葉が含んでいる価値観や情操を理解できない。つまり、そうした価値観や情操を持ち合わないということになります。ゆとり教育がもたらした若者たちの学力低下が日本の国際競争力を低下させているのは言うまでもありませんが、国民の文化レベルも未開の地の民族の水準まで下げようとしているとしか思えません。
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