メッセージ(バックナンバー)

 クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」を娘と見に行きました。
 イーストウッドは役者としても監督しても好きな人ですが、映画に描かれるよりも、もっと深い物語があることを知らされていた私は、映画は悪くはなかったものの正直なところ物足りなさを覚えました。
 昭和20年2月19日硫黄島に米軍が上陸し、36日間の地下壕からの日本軍による徹底抗戦の末に日本兵1万9900人、米兵6821人の死者を出した戦いの中で、米軍のスミス中将は「太平洋で戦った敵指揮官のなかで、栗林中将はもっとも勇猛であった」と語っています。
 最後は電文に添えられた和歌「国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき…」の一首は有名です。昭和20年3月17日に陸軍大将に昇進したことも知らず3月26日53才で戦死されます。
 総指揮官として戦った栗林忠道中将のお孫さんは、現在自民党の国会議員です。暮れの12月26日に総理と昼食をとった時、総理が雨降る庭を見ながら「硫黄島からの手紙」(文藝春秋)の中から末娘への手紙の一節を話されました。窓から見える久々の雨はかなり激しく、部屋には鎮魂の空気が流れ、私は胸がつまる思いがいたしました。
 
 硫黄島は水のない島です。
 火山島で川はなく、雨水に頼っての生活で、兵士たちは“一日に水筒一本の水”を上下の区別なく、平等に定めて、中将ご自身も守っておられたと聞きます。
 もちろん野菜もありません。内地から、珍しく一かごの野菜が届いた時は、兵士たちに平等にと何百もの小片に細かく切り刻ませ食べさせたといいます。
 「硫黄島からの手紙」は、奥さんと長男、長女、次女あてに書かれています。
 米軍がいつ攻めてくるかわからない中で、自分の死を覚悟しながら家族への細やかな思いやりと愛に満ちた手紙を栗林中将は送り続けます。
 
 妻に向けて昭和20年1月21日
 「…イザとなっても驚いたり間誤ついたりせぬだろうと思うが、どうかほんとにしっかりして貰い度いものです。尚一度申したが、新聞記者や何かには色々余計な事ハ話さないがよい。…又遺骨は帰らぬだろうから、墓地についての問題はほんとの後まわしでよいです。もし霊魂があるとしたら御身はじめ子供達の身辺に宿るのだから、居宅に祀って呉れれば十分です(それに靖国神社もあるのだから)それではどうか呉々も大切にして出来るだけ長生きをして下さい。長い間、ほんとによく仕えて呉れてありがたく思っています。此の上共子供達の事よくよく頼みます」
 
 長男に向けて昭和19年11月2日
 「人間として智徳を研く事は何より大切であるから、戦争中だろうが何だろうが己れの学業をいい加減にする事はよくない事だ。毎日の、勤労作業で勉強する気にもなれないとは思うが、そこをよく考え一心不乱に実力を養い志業を全うしなくてはならぬ…」「…何をするにも意志の力即ち精神力が一番大切であるから、強固な精神力を養う事を絶えず考えなくてはいけない。そして努力しなくてはいけない。…どうか奮然として意志を強くし、精神力を旺盛にし、父なき後も母や妹達の信頼の杖柱ともなる様心掛けて貰い度い。此の戦争で万一父が生きて帰れるなら、正直なところまだお前にそれ程の要求をせず、父としてお前をらくさせながら導いて行く事が出来るのだが、何しろ到底生還は出来ない運命であるから此くも強いるのである。」
 
 次女たか子に向けて昭和19年11月17日
 「たこちゃん!元気ですか?お父さんは元気です。ゆうべも寝て直ぐと明け方との二回空襲がありましたが、お父さんは面白い夢を見ました。それはたこちゃんがおふろから上がってめそめそ泣いていましたから、お父さんは『どうして泣くの、おふろがあつかったからかね?』と尋ねていると、お母さんが笑いながら出て来て『きっと甘いものがほしいからでしょう』と言うてお乳を出して飲ませ二人して寝ころがりましたが、其の時たこちゃんはほっぺたをふくらしてスパーおちちを飲んでとてもうれしそうにしていました。そこへ又ねえちゃんが出て来て『たこちゃんはこんな大きくなってオッパイ飲むとはあきれたあきれた』と言いながら、たこちゃんのほっぺたつつきました。それだけですが、お父さんはみんなの顔がはっきり見えたので、会ったも同じ様でした。どうです、面白いゆめでしょう。…」
 
 昭和20年1月18日
 「たこちゃん…誰にでも好かれるには勉強が出来る許りでなく誰にでも親切にしていじ悪や皮肉をしない事です。之は大人になった場合に一番必要の事で、女の子はなお更そうです。たこちゃんも之からからだを丈夫にし又誰にでも好かれる様な人になりなさいね。」
 
 奥さまには信頼を、長男には男としての生き方を、長女には思いやりを、そして末娘のたこちゃんには甘い甘い手放しの言葉を記しています。
 娘や息子にも読み聞かせました。
 栗林中将は、ワシントンで駐在武官として働いたこともある方でした。戦局を他の人より冷静に見ていたことでしょう。
 ふと父のことを思い出しました。加藤隼戦闘隊のパイロットとして志願兵で戦った父は、アメリカに留学した祖父のもとでジャズやアメリカ文化にひたる機会も多く過ごしました。そして、その上で日本の国土、文化、歴史、家族、友人の妹や弟、同胞を守るために100%死ぬ覚悟で志願したといいます。
 “しゃあねぇやね。開戦しちまったんだもの。男だから守るために戦う”父は戦後、志願した時のことを理屈としては語りませんでした。
 そして口グセとして“おつりの人生、亡き戦友たちに申し訳ない”と言い“苦しい時優雅にやせ我慢できる人間は上等だよ”と言っていました。撃墜されて関節のあちこちが動きませんでしたが、そんな父のクセのある体が魅力的に思えました。
 そんな話も語り聞かせると、「人生は不条理ね。生まれた時代、場所により、あまりに差がありすぎる」と言いました。
 本当にその通りです。しかし、愛するものの存在を明確に知り、自分が傷ついても、時には死しても守り通そうとすることのできる人間という存在の重さを胸に刻むことはまた尊いことでもあると思うのです。

平成19年1月9日 山谷えり子

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