メッセージ(バックナンバー)
 週末、郡山を回り、猪苗代町で講演をしました。
 40年前、学生時代に猪苗代湖を回り磐梯山のすそ野にある野口英世博士の生家に立ち寄ったことがあります。
写真:野口英世博士の生家前にて
 1歳半の時に落ちて左手をやけどした「囲炉裏」そして医師になる志を立て、床柱に「志を得ざれば再び此地を踏まず」と決意を刻んだ野口博士の文字はそのままに残っています。
 学生の私は、丸一日、山と湖の間にあるかやぶきの家の前から動くことが出来ませんでした。
 「志を立て、決してあきらめずに進み続ける心を私にもお与え下さい。私にはまだ志といったものが明確でありません。はっきりとした形になるよう導いて下さい」と祈ったものでした。風の強い日でした。
 40年後は、生家のそばには立派な記念館がたっており、博士の靴や洋服、手紙、顕微鏡など博士の息づかいが聞こえてきそうな品々が展示されています。
 身長153センチ、体重50キロ、足の大きさ23センチ…小さな体で、なんと大きなことを成しとげられたのでしょう。
 恩師への手紙などは400通にのぼるといい、敬愛の心にあふれています。
 平成18年6月には小泉元総理も訪問なさり、アフリカの医学研究、医療活動分野における卓越した業績に対し“野口英世賞”を贈ることになりました。
 小泉元総理は野口博士の母上のシカさんの手紙にも感激され、ある夕食の席でそのことを話されたので、私はシカさんの手紙の文章
“おまイのしせに(お前の出世)にはみなたまげました…はやくきてくたされ、はやくきてくたされ…いしょのたのみ(一生の頼み)てあります。にしさむいてわおかみ(西さ向いては拝み)、ひがしさむいてわおかみしております…ねてもねてもむられません…”
 と続けました。
写真:野口博士の母上のシカさんの手紙
 小泉総理はどうして詳しいの?という表情で私を見られましたが、学生時代の旅の日の記憶はそれほど鮮やかで、また子育てに悩む日々には、博士の母の手紙を思い出しては、母であることのもったいなさをかみしめ直したものでした。
 今回記念館のみやげもの売り場に母上の手紙の複製が売られていたので買い求めました。八子館長はおじいさまが野口英世博士の親友でいらしたというご縁で、記念館をお守り下さっています。
 博士の遺訓は「目的、正直、忍耐」です。母上シカさまの観音さま信仰をうけ、英世もお守りとして観音さまを肌身離さず持っておられたといいます。
 アフリカで黄熱病の研究中、自ら感染し、昭和3年、51才で亡くなられた時の最期の言葉は「私にはワカラナイ」だったとか。
 八子館長は、別れ際に、私に“千円札の顔に登用されたり、野口英世アフリカ賞ができたりと喜ばしいことですが、最も重要なことは親孝行の心や先生に対する尊敬の姿、友情、努力、忍耐の精神、つまり博士の生き方を伝えることが最も大切と考えています”という文章を下さいました。
 また会津藩主初代保科正之公が眠られている土津神社に参り、お墓まいりをさせていただきました。
 保科正之公は、江戸幕府第三代徳川家光の異母弟で、家光、家綱を補佐し「会津家訓十五ヵ条」を定めたりした江戸初期の三名君(水戸の徳川光圀、岡山の池田光政)と賞された藩主です。
 産業の振興、教育、文化、福祉の政治(身分を問わず、終生一人あたり一日玄米5合を支給するなど日本の年金制度のはじまりを作ったともいわれる)をなさった保科正之公。
 もう一度学び直したいと思います。

平成20年12月3日 山谷えり子

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