メッセージ(バックナンバー)

 坊ちゃん列車の走る松山で教科書問題、ジェンダーフリー問題について講演してきました。松山といえば日露戦争後、ロシア人捕虜収容所のあったところで、一時6000人のロシア人が松山で暮らしていました。松山の人々は異国の地で不安も多いロシア人を大切にし、不幸にして病で亡くなられたロシア人の墓地は今も子供から老人までがボランティア清掃活動をしておられるとか。最近の慰霊祭には、在日ロシア大使が参列して“100年もの長い間、同胞を大切に扱ってくれた地域の姿は、その後の新しい歴史”感謝の言葉を述べられたといいます。
 そんな松山で、女性たちが子供の健全育成と家族の絆の再生を求めて、会場がいっぱい。立ち見が出るほどに集まってくださいました。
 愛媛大学の大学生もいっぱいお集まり下さり、若い方が“政治家になってつくしたい”と声をかけてくださり、頼もしい限りでした。歴史洗脳を解く(扶桑社 栗原宏文)の著者ともお話ができ勉強になりました。
 ところで松山といえば「病牀六尺」の正岡子規が暮らした地です。36才で没した子規のため「子規記念博物館」があります。
 忍耐し、苦しみの中で、静けさと澄んだ眼差しを獲得していく生き方に、若い頃、大いに感銘をうけたものです。
 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の俳句は有名ですが、病をえて漱石や高浜虚子、伊藤左千夫らが精神的に支えたエピソードも心をうちます。虚子の考えにより、障子がガラス戸に変えられた病室で、子規は外の世界に目を向け、生きる希望を見出していきます。
瓦斯灯にかたよって吹く柳かな(正岡子規)
三日月のほのかに白し茅花の穂(正岡子規)
 子規の句は、風景が絵画のよう、映画のスクリーンのようです。
 子規晩年の随筆「病牀六尺」は明治35年5月5日から9月12日まで布団にしばりつけられ、六尺の病気の体(結核より脊椎を侵されて)を天地として考え、記したものです。自然の話、食べ物の話、家庭のあり方の話、看病の話、生と死、心と体の話、六尺の体を宇宙のはてまで飛翔させて語る言葉には、今もドクドクと脈の音が聞こえるようです。
「病気の介抱に精神的と形式的との二様がある。精神的の介抱といふのは介護人が同情を以て病人を介抱する事である。形式的介抱といふのは病人をうまく取り扱ふ事で、例へば薬を飲ませるとか……此二様の介抱の仕方が同時に得られるならば言分はないが、若し何れか一ツを選ぶといふ事ならば寧ろ精神的同情のある方を必要とする」
「家庭の教育といふ事は、男子にも固より必要であるが、女子には殊に必要である。……来客にはどういふ風に応接すべきものであるかといふ事などは、親が教へてやらなくてはならぬ。殊に女子にとっては最も大切なる一家の家庭を司って其の上に一家の和楽を失はぬようにして行く事は、多くは母親の教育如何によりて善くも悪くもなるのである。」
「一家団らんといふ事は、一家の者が平和を楽しむといふ効能があるばかりでなく、家庭の教育も亦この際に多く施されるのである。一家が平和であれば、子供の性質も自ら平和になる。父や母や兄や姉やなどの雑談が有益なものであれば子供はそれを聴いてよき感化を受けるであらう。既に雑談といふ上は、むづかしい道徳上の議論などをするのではないが、高尚な品性を備へた人の雑ならば、無駄話のうちにも必ず其高尚な所を現して居るので、これを聴いて居る子供は、自ら高尚な風に感化せられる」
「死生の問題は大問題ではあるが、それは極単純な事であるので、一旦あきらめてしまへば直に解決されてしまふ」
「悟りをいふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違いで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」
「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分って来るような気がする」
(病牀六尺より)

平成17年6月11日 山谷えり子

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