平成13年度活動報告

衆議院文部科学委員会議事録
衆議院文部科学委員会での山谷えり子の質問
平成13年10月31日
 
第2回衆議院文部科学委員会議事録
平成十三年十月三十一日(水曜日)午前十時二分開議
出席委員
委員長 高市 早苗君
理事 斉藤斗志二君 理事 鈴木 恒夫君
理事 田野瀬良太郎君 理事 高橋 一郎君
理事 平野 博文君 理事 山谷えり子君
理事 都築  譲君
  岩倉 博文君 小渕 優子君
  河村 建夫君 倉田 雅年君
  杉山 憲夫君 砂田 圭佑君
  谷垣 禎一君 谷田 武彦君
  谷本 龍哉君 中本 太衛君
  馳   浩君 林 省之介君
  増田 敏男君 松野 博一君
  水野 賢一君 森岡 正宏君
  大石 尚子君 鎌田さゆり君
  今野  東君 中野 寛成君
  葉山  峻君 藤村  修君
  牧  義夫君 松野 頼久君
  山口  壯君 山元  勉君
  池坊 保子君 斉藤 鉄夫君
  武山百合子君 石井 郁子君
  児玉 健次君 中西 績介君
  山内 惠子君  
 
文部科学大臣 遠山 敦子君
文部科学副大臣 青山  丘君
文部科学副大臣 岸田 文雄君
厚生労働副大臣 南野知惠子君
文部科学大臣政務官 池坊 保子君
政府参考人(文部科学省大臣官房長) 結城 章夫君
政府参考人(文部科学省生涯学習政策局長) 近藤 信司君
政府参考人(文部科学省初等中等教育局長) 矢野 重典君
政府参考人(文部科学省高等教育局長) 工藤 智規君
政府参考人(文部科学省高等教育局私学部長) 石川  明君
政府参考人(文部科学省科学技術・学術政策局長) 山元 孝二君
政府参考人(文部科学省研究振興局長) 遠藤 昭雄君
政府参考人(文部科学省研究開発局長) 今村  努君
政府参考人(文部科学省スポーツ・青少年局長) 遠藤純一郎君
文部科学委員会専門員 高橋 徳光君
午後一時開議
-高市委員長
休憩前に引き続き会議を開きます。
質疑を続行いたします。山谷えり子君。
-山谷委員
 九月十一日の米国中枢同時テロ事件は、物の考え方、物の見方が変わってしまったという方が多くいらっしゃる、それくらいの大きな衝撃でございました。
 サンケイリビング新聞が五百人のアンケートを集計いたしましたところ、事件について家族で何を話したかというアンケートなんですけれども、一番が宗教、民族問題について、続きまして、テロ、戦争について、それから、いつどこで何が起こるかわからない世の中、人命のとうとさについてというような集計になりました。
 今回の事件はキリスト教対イスラム教の宗教戦争としてとらえるべきではありませんし、そのような構図にすることはいけないことでございますけれども、だからこそ、宗教的な教養教育といいますか、そのようなものは必要ではないかというふうに私は考えております。
 折しも、中教審は、教養教育の在り方に関する最終報告骨子案をまとめました。今回の米国同時多発テロ事件に象徴されるように、国際化時代を生きる現代人に求められる教養として宗教に関する理解が不可欠と明記しまして、世界の宗教に関する解説資料などをつくり、小中高校段階から異文化理解を促す教育を求めたのが特徴でございます。
 先ほど中野議員も質問の中にお入れになられましたけれども、宗教教育というのは確かに難しゅうございまして、いかにやるか、また伝える人というのもいろいろでございましょうし、大変難しい。
 けれども、現在、キリスト教徒が世界で十五億人、イスラム教徒が十一億人、ヒンズー教徒が七・五億人、儒教、これを宗教に入れていいかどうかあれですけれども、三・七億人、それから仏教、三・五億人。日本でいえば、文化庁の統計によれば、神道系が一億一千八百万人、仏教系が八千九百万人、キリスト教系、百五十万人、これを足すと物すごい数になってしまうんですけれども、統計ではそのようになっております。
 宗教一般について客観知識がないというのが、今の子供たちの現状ではないかというふうに思います。超越せるもの、目に見えない、目に見えるものの背後にある何かとうといもの、そういうものを推しはかる教育というのが今教育現場で失われているわけでございますけれども、宗教的情操心、心をはぐくむ教育というのを国公立の小学校、中学校、高校段階で腰が引け過ぎているのではないか、というか、何かちょっと違った形でとらえられ始めているのではないかというふうに思います。
 教育基本法第九条第二項は「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」とあります。私もそのとおりだと思います。特定の宗教教育をしてはいけないし、特定の宗派的な活動というのは公立の学校ではしてはいけないと思っておりますし、また、特定の信仰を強要することがあってはならないというふうに思いますけれども、一般的な広い意味での宗教的な教養教育、あるいは宗教心を育てるような教育というものについて、遠山大臣は、この教育基本法の九条二項の絡みもございますし、どのようにお考えになっていらっしゃいますでしょうか。
-遠山国務大臣
 宗教的な情操をはぐくまなくてはいけないというのは、まさにそうだと思っております。今日世界で起きている、かの同時多発テロを起因とするいろいろな問題についても、宗教に関するある程度の知識がない限り、非常に間違った理解をしてしまうのではないかと思われます。ただ、本当の意味の宗教を理解するということは大変な時間もかかり、そして、よほどよく見きわめた目を持たないとわからないと思います。
 私もたまたま三年間大使としてトルコにおりましたことから、イスラム教のあり方、あるいはそれが人々の生活にどのようになじんでいるか、また、それをもとに人々がどのように生きているかということをつぶさに見ることができました。しかし、それも本当に理解しようとする心がなければ見逃してしまうようなことであったかもしれませんし、それくらい時間をかけてやっと、何かその辺のものがおぼろげながらわかるというようなものかと思っております。
 その意味で、宗教について表面的なことを学ぶということについては、私もやや、本当に難しいことだなとは思っております。しかしながら、では、できないといって学校教育で全くやらないかということは、これまた子供たちの人生にとって大変大事なものを教えられないまま過ごすということになろうかと思います。
 そのようなことで、ちょっと現状の学校での取り組みの基本だけお答えしたいと思います。
 学習指導要領におきまして、小中学校の道徳において、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深めたり、あるいは高等学校の倫理におきまして、人生における宗教の持つ意義を理解し、人間としてのあり方、生き方について考えを深めたりする、このような形で宗教的な情操を培うということをねらいといたしております。
 また、高等学校の地理、歴史科になりますと、宗教だけを取り上げるということではなくて、宗教などに着目させながら世界のいろいろな文化に対する理解を深めさせるというようなことがねらいとされております。
 学校現場においては、それをいかに子供たちに伝えていくかというのはなかなか難しいことだと思いますけれども、私は、ここでねらいとしている精神を十分酌み取っていただいて、それぞれの教員が十分に勉強されて、この問題に取り組んでもらいたいものだと思っているところでございます。
-山谷委員
 おっしゃることはよくわかるんですけれども、それにしては、今の教職員養成の課程でそういうような視点でのカリキュラムというのは圧倒的に足りないというふうに思いますし、それから、百科事典で読むように宗教を読んで理解するというものではございませんので、例えば神社、仏教関係のお寺あるいはキリスト教会、いろいろな場所に行ってお話を聞いてみるとか、そういうような体験的なものも含めて教職員の養成のあり方を見直していただきたいというふうに考えております。
 それから、イギリスでは、週に二時間から三時間、公立学校での宗教教育を義務づけております。ドイツも、二時間から四時間、カトリック、プロテスタント、それぞれの宗派を自由意思で選んで、もちろん選びたくない子は選ばなくてというような形でやっているわけでございますけれども、日本でどのような形が現実的であり、また実り多いものかということをこれから考えていったらいいというふうに思うのです。
 私が公立の小学校のPTAの会長をやっておりましたときに、図書館に行きまして、その町の一番大きな神社がいかに町の人々によって明治時代から支えられてきたか、あそこの家のひいじいちゃんがこうやったとか、屋根をふいたとか、そんな話をお母様方にしてさしあげましたところ、お祭りのみこしの動きが非常によくわかるようになったとか、子供に説明してあげることができてよかったとか、あるいは、これも自由活動でございますけれども、放課後近くのお寺に子供たちが落ち葉掃きに行って、そしてそこの御住職に御法話を聞くというような活動も計画したりいたしました。自由参加のそういうようなプログラムを地元の方たちと協力してやっていく可能性というものを教育委員会も含めてつくっていくということによって、やはりもう少し推進できていくのではないかというふうに考えております。
 学校の行事なんかは、例えば花祭りとか、七夕、お盆、七五三、クリスマス、あるいは給食のメニューとかでいろいろな行事の意味を、そのときにその由来を教えるとか、何かそういうものを加えて学校行事というものをやっていくのもいいのではないかというふうに考えております。
 芸術活動でも、ダンスとか音楽とか美術とか、もちろん文学もそうです、やはり宗教がベースになっているものも非常に多うございますので、これからは、そのような視点というものを教えるような__国際社会というのはそういうところでございますので、トルコも、神殿が真ん中にあって、それから競技場があって、図書館があって、文化施設があってという、そういう町の構成になっているわけですよね。そういう世界のあり方を国際人として理解するためにも、そういった視点というものを伝えるという努力をしていかなければ、非常に洞察力のない子供たちに育つのではないかなというふうに考えております。
 私がなぜこんなことを言ったかといいますと、学校現場でいろいろなことが行われております。先ほど森岡議員より、修学旅行先で、海外は多くなったけれども京都、奈良はこの十年で半分になったというお話がありましたけれども、例えば伊勢神宮の修学旅行、昭和五十年に五十四万人、六十年に三十五万人、平成九年に七万人と、こちらももう激減しております。大阪市立の小学校に聞きましたところ、さっと見学して、中には鳥居の手前でもう解散というようなところもあるということでございます。とにかく、神宮の細かい説明はできない、それは宗教活動になってしまうからと。
 そこまで考えるのはどうなのかなというふうに思うんですが、例えばほかに、富山の小学校、浄土真宗王国でございますので、給食の前にいただきますと手を合わせていた、ところがPTAのある方が、それは宗教的行為ではないかということでクレームを出しまして、いや、そうかもしれないということで、数十校で、給食の前に手を合わせていただきますと言うことをやめた。心の中で言いましょうというふうに先生は御指導なさったらしいんですけれども、それからは、給食の前がぐざぐざぐざっというような形で非常に、食べ物に対する感謝の気持ちとか、いろいろな方の御苦労で私たちが生かされているというような、何か静かな、清らかな雰囲気でいただき始めるというような雰囲気が全くなくなったというようなこともございます。
 あるいはまた、千葉で、やはり問題になりまして武道場から神棚が外されていったとか、あるいは、小学校でおみこしをつくってそれを運動会などでやろうと思ったらやはりクレームが来たとか、ちょっと何か過敏過ぎるのではないかなと。九条二項の解釈をめぐってちょっと過敏になっている。やはり人間の存在、それから日本人の存在というのは、伝統、歴史、文化、さまざまなものがつながって生きているわけでございますから、それを徹底的に排除してしまったら、日本人、人間の存在としても何か偏ったものになっていくのではないかというふうに考えておりますが、そのような現状についてはどう思われますでしょうか。
 ちなみに、昭和二十四年文部事務次官通達では、公立校でも宗教的施設の訪問は許される、強要はしないけれども許されるというふうになっておりますけれども、その辺はいかがでございましょうか、遠山大臣。
-遠山国務大臣
 今いろいろな例をお聞きしながら、そこまでに至っているのかと私も愕然といたしました。特に、食事の前に手を合わせていただきますと言うのは、これは人間として当然の振る舞いでございまして、それが、宗教をバックにしているとかそういうふうな解釈でやめてしまうというのは、いかにも見識がないと私は思います。
 特に、歴史、文化を通じながら、宗教的な感覚といいますか、宗教的なものに触れながら、何らか人間を超えるすぐれたもの、畏敬すべきものについて考えさせる、そういったことはまことに大事でございまして、まさにそういうことが心の豊かさをはぐくむ非常に有効な方途として、学習指導要領上もそうでございますし、それより前に、教育というのは本当に子供たちの心の豊かさというのを目指すべきでありまして、いろいろな方法があると思います。それを、あれをやってはだめ、これをやってはだめとみずからそういう形で律するというのは、本当の自律ではないと思いますね。
 私はそんなような学校が多いとは思いませんけれども、そこのところを、例えばあいさつをするというのと同じレベルで考えたとしても、いただきますと、感謝を込めてやるのは当然でありますし、私は、今のようなお話というのは、まことにそういうことであれば非常に、私どもとして考え直さなくてはいけないのではないかと思っております。
 いろいろな趣旨のことをお話しいただきましたし、宗教教育のあり方についてお互いに論じ合うにはちょっと時間が足りないかとは思いますけれども、しかし児童生徒が、郷土の生活文化あるいは日本の伝統文化についての理解を深めて、地域の一員としての自覚でありますとか、それを通じて国際社会に生きる日本人としての自覚を養うということは極めて重要でございます。そういう中には人々の信仰に由来するものもございますけれども、学校においては、憲法、教育基本法の趣旨を踏まえながら、宗教や信仰に着目させながら、日本人の生活様式や伝統文化の特質を理解させる指導が適切に行われることが必要であろうと思います。
 本当の意味の宗教の大事さ、あるいはその真髄については、もっと、このような程度ではないとは思いますけれども、学校では最低限このようなことは指導していくべきではないかと思います。
-山谷委員
 いろいろな現場の実態調査などもしていただきながら、どのような可能性が日本においてはあるのかというのを積極的に探っていただきたいというふうに思います。
 さて、痛ましい事件が起きるたびに命の大切さという言葉が繰り返されるわけでございますけれども、九月八日、大阪の中学一年の女子生徒が手錠をかけられ車から転落死した事件がございましたが、犯人は兵庫県の中学の教師。テレクラで援助交際を持ちかけて誘い出した。生徒からは既に以前から、セクハラ行為があるとか、あの先生は援助交際していたらしいという相談もあったけれども、相談を持ちかけられた先生はそれを聞かなかったということでございます。
 遠山大臣は、九月十三日、都道府県と政令市の教育長が集まる会議の中で、服務規律の徹底や、問題教員に懲戒処分や転職措置などを適用するというふうに求められましたし、また矢野初等中等教育局長は、特に児童生徒へのわいせつ行為は原則として懲戒免職というふうに要請なさいました。
 しかしながら、わいせつ行為で処分を受けた公立学校の教師は九九年度百十五人。前年度の一・五倍。しかし、懲戒免職は約半数の五十六人ということでございました。
 要請してもなかなか、これはどの段階まで行けば懲戒なのか。あるいは先生のプライバシーという問題もございますし、調査委員会に権限がなかったりなんかいたしまして、非常に__私が問題教師の配置転換の問題を教育三法の議論のときにさまざまヒアリングをいたしましたところ、セクハラ・わいせつ教師というのは大変多うございます。それからまた、別の学校へ行ってもまた同じことを繰り返しているという例を見まして、これはもう少しきちんとした何か、ガイドライン、マニュアル、それから委員会の権限、あるいは、校長は聞いたらきちんと教育委員会に上げなければいけない、そういう怠慢で次の事件がまた巻き起こった場合にはきちんと先生の管理職責任を問うとか、教育委員会は、その上がってきたものを、しかるべきところから問い合わせがあればきちんと伝えなければいけないとか、何か具体的な形をつくっていかないと、要請しただけでは全く無力だというふうに思いますけれども、その辺はいかがでございましょうか。
-岸田副大臣
 今の御指摘の点なんですが、兵庫県の中学校教諭の事件等を踏まえまして、さきの都道府県・指定都市教育委員会委員長・教育長会議において、児童生徒に対するわいせつ行為等を行った教員は原則として懲戒免職にする旨指導した次第であります。
 この原則としてという部分でありますけれども、これは、児童生徒に対するわいせつ行為等は、児童生徒を守るべき立場にあり高い倫理性が求められる教員として絶対許されないということ、これはもう当然のことであります。
 その中で、原則として懲戒免職としましたその内容でありますが、要は例外的な場合を除きということでありますが、例えば具体的な事件、先生も数を挙げられましたけれども、本当にいろいろな事件があります。いろいろなパターン、ケースがあるわけですが、そのいろいろ問題になったケースを見ますと、例えば、中学校の女子バレーボール部の顧問をしている男子教諭が、わいせつの目的ではなく実技指導の一環として腰を触れたことについて、当該女子生徒が不快感を得て、そして騒ぎになったというようなケースもあります。こうしたさまざまなケースがありますので、一応、原則としてということをつけた上で懲戒免職にすべきであるということを打ち出した次第であります。
 しかし、これは申すまでもなく、こういったことはあってはならないわけでありますから、この運用におきまして、厳正な運用を図らなければいけないというふうに思っております。その厳正な運用につきましては、これから具体的な事例については詰めていかなければいけないというふうに思っていますし、また、こうした処分だけではなくして、教員のカリキュラムあるいはその採用等におきましても、この部分につきまして、ぜひしっかりとした認識を持ってもらう努力を積み重ねていかなければいけないというふうに思っています。
 こうしたカリキュラムあるいは採用、そして処分、この辺をあわせて、こうしたわいせつ行為を根絶する努力を積み重ねていかなければいけないと考えております。
-山谷委員
 確かに過剰反応というのはありまして、うちの子供も高校生ですけれども、体育の授業で先生がもう体をさわれない、お友達同士でこういうふうに形を直したりと、それは行き過ぎではないかというふうに思いますけれども、あくまでも常識の範囲で、生徒から声を聞く、先生の言い分も聞く、同僚たちの言い分も聞く、管理職の言い分も聞く、そして第三者あるいはプロの意見を聞くというような、何か委員会の枠組みで、それからある程度のレベルで、どの段階からもう懲戒免職かというような、やはりきちんとしたものをつくって対処するよという毅然とした態度をこの辺で見せていただきたいと考えております。
 それから、テレクラやツーショットダイヤルに電話したことがある中高校生は今六人に一人。これは旧総務庁の統計でございます。電話するのは本人の自由あるいは構わないと答えた子が八割、いけないとしたのは二割でございます。見知らぬ男性とデートしてプレゼントをもらう、いわゆる援助交際のようなことをいいか悪いかというふうな調査では、高校生の女子、テレクラの電話経験がない子で、本人の自由だ、構わないと言った子が七二%、テレクラの電話の経験がある子では、本人の自由、構わないと言った子が八五%という結果になっております。
 それでというわけではないんですけれども、ちょっと教科書で、例えば青年期の性というのをどういうふうに扱っているのかと調べてみました。これは、シェア二六・八%、高校の家庭科の教科書でございます。
 「青年期の性」「人間にとっての性行動は、単に生殖につながるだけのものではなく、男女のコミュニケーションとして愛情を育て、確かめあい、互いに充足感を求めようとする行動である。」「私たち人間は、長い歴史の過程で、」「愛と性の文化をつくりあげてきた。」というような一文がございます。
 これは雑誌に書いてあればどうってことないのかもしれませんし、また、こういう社会情勢の中でなければ、あるいは高校生に教えるのでなければ、このような書き方はあり得るというふうには思うんですけれども、「人間にとっての性行動は、」「男女のコミュニケーションとして愛情を育て、」なんというふうに書かれると、ああ、性行動がないと愛情が育たないのかしらというふうに思ってしまうかもしれないですね。
 検定基準には、誤解されるおそれのある表現のないこと、健全な情操の育成について必要な配慮があることというふうに書いてあるんですけれども、これはどうでございましょうか。大臣、感想で結構でございます。
-池坊大臣政務官
 子供たちに正しい性教育をすることは大変必要なことだと思います。
 確かに、今の箇所だけを見ますと何なんだろうかとお思いかもしれませんけれども、私が申し上げるまでもございませんけれども、この教科書の中には、「青年期の性」ということの中で、私たち人間は、長い歴史の過程で、性衝動を自らコントロールできる性行動の自律化と避妊技術を習得し、愛と性の文化をつくりあげてきた。
 私たちは、男女が互いにいつくしみあい尊重しあうためにも、性の意義、性交・避妊についての知識を深める必要がある。
 愛と性は、本来、人間の生活と切り離せない男女の全人格的な営みであるはずなのに、と、性を商品化しちゃいけないのだということなどを述べてございます。
 ですから、これだけをとりますと、男女のコミュニケーションが性なのかと思うんじゃないかという山谷委員の御指摘でございますが、これは全体の中のこういう文章でございまして、愛というのは文化である、性交はただ生殖だけでなくて、それは人間だけが持てる自制の精神も必要としているのだというようなことも書いてございますので、これは個々の先生方の指導のあり方にもかかわってくると思いますけれども、全部を通して読んでいただければ、子供たちもしっかりと性を、愛における性交とはどういうものかということを理解していくと思っております。
-山谷委員
 本当に、私も先ほど言いましたけれども、雑誌ならこういう書き方はあり得るかもしれないけれども、教科書ではいかがなものかということを言いたかったわけでございます。
 それから、命へのまなざしについて、この五十年で我が国では中絶手術が七千万件、実はもっともっと、ひょっとしたら倍あるんじゃないかというふうにも言われております。さきの大戦で亡くなられた方が三百万人でございます。十代の中絶数が平成十二年で四万四千四百七十七件、十五から十九歳の中絶実施率はこの五年間で二倍になっております。
 胎児の命についてどのように書いているかといいますと、「やむをえずうめない場合には母体保護法において、人工妊娠中絶という方法を選択することもあるだろう。こうした選択肢は、女性の基本的人権の一つとしてとらえることができる。」というふうに書いてあったりとか、これがシェア三七・三%の高校の家庭科ですね。それから、中絶が必要になった場合にはできるだけ早期、十一週までに行う方が母体への負担は少ないというような書き方もございます。
 もちろん、そうでない表現というのも教科書にはあるわけでございますけれども、やはり一つの命、神秘に対する周囲の人々の大きな愛のまなざしというものが余り感じられない一方的な書き方になっているのではないかというふうに私は感じたわけでございます。
 三人の子を私は授かりましたけれども、遠い昔から伝わってきた命を次の時代に伝える意味とか、畏れとか感謝とか、非常に深く味わいました。けれども、教科書によっては、「子供は天からの授かり物と考えられていたが」と、こう何か過去形みたいに書いてある教科書もございました。
 現在の教科書の記述には、命に対する畏敬の念、命の流れの神秘、それから相手のパートナーだけではなくて生まれてくる子を取り巻く温かい人々の思い、そして胎児への愛と責任、倫理的な視点が欠けている。十何年前の教科書を見ましたら、それは倫理的な問題があるというふうに書いてあるんですが、今の教科書はそうではなくて、心身の負担が女性にとって多いというような書き方に変わってきております。
 現代社会の風潮の中では、命をつないでいく重さよりも自己決定権が大事と強調されているように読み取ってしまう子もいるのではないかというふうに感じておりますが、大臣、その辺はいかがでございましょうか。
-岸田副大臣
 今、先生御指摘の、まず教科書についてでありますけれども、教科書は、いろいろな読み方はできると思います。
 御指摘の箇所の人工妊娠中絶の記述ですが、これは教科書の中で、母性の健康と生命の誕生についての記述の中で、要は、経済的、精神的、健康的な理由などから妊娠しないことも親の責任であり、子供の生命や親の人生設計上重要であるというようなことやら、あるいは、望まない妊娠についてパートナーと十分に話し合う必要があるということ、そして、やむを得ない場合としてそうした御指摘の記述があるわけです。
 そして、それに加えて、一九九四年にカイロで開かれた世界人口・開発会議において、主体的に選択できる自己決定権を持つことが女性の基本的な人権であるとして、その中で人工妊娠中絶も選択肢の一つであるという考え方が盛り込まれているというふうに述べられており、さらにそれに加えて、コラムにおいて、宗教上の問題から世界的な一致を見るに至っていないという記述もある。
 そして、これら全体でどう読み取るかということであります。これは、先生の御指摘のようにいろいろな読み方があるのかもしれませんが、この辺の全体を判断した上で、専門家から成る教科用図書検定調査審議会の審議を経て、こうした検定で許容されたということであります。
 しかし、これは、具体的な個別な箇所はともかくといたしまして、先生の御指摘のように、命のとうとさということについては、これは大切なことであるということ、これは誰も異存がないと思っております。この大切な部分において、しっかりと認識されるよう、あるいは誤解がないようにしっかりとした努力をしていかなければいけないというふうに考えております。
-山谷委員
 カイロ会議の文章を英語で読みましたけれども、基本的人権としての選択肢の一つであるというようなことが確認されたというような文章では、私の読解力ではそういうふうに読み取れなかったということをお伝えしたいというふうに思います。
 それから、家庭についてではこのように書かれております。これもシェア三七・三%の家庭科、高校生です。
 「専業主婦として、日中家で子どもと過ごす母親は、生きがいは子どもだけになり、いっぽうで孤立感やいらだちを募らせる。子どもは友だちとの関係がきずけなくなる。」と、切っています。「日本は欧米先進国と比較しても、離婚率はあまり高くはない。では日本の夫婦関係は良好かといえば、そうともいえない。離婚後の経済事情を考えれば、結婚生活をつづけざるをえないケースなどもあるからである。」というふうに書いてありますけれども、最後に、遠山大臣、青少年の性、それから胎児のこと、それから家族のあり方、いろいろ教科書を私は読みましたけれども、一言御感想をお願いできればと思います。
-遠山国務大臣
 いろいろな学ぶべきことございますと思いますけれども、一番大事なのは、人間にとって命の大切さ、それは自分自身だけではなくて、他者の、胎児も含むのかもしれませんけれども、命の大切さというものをきちんと学んでいく、そのことが基本にあるのではないかと思います。
 その意味で、個別のいろいろな知識を持たせるということも大事でございますが、私は、先生がずっとこの質問で追求し続けられたことは、その中を通る精神といいますか、そういうものの大切さというものを、私はそれぞれの教師が自分の信念でもってやっていいと思うんですね。そういうものをしっかりと伝えてもらいたい。本来ならば、それらは親が子供に対して伝えるものであります。しかし、それだけを期待していては十分でない今の時代に、教員の皆さんがそういうことについて、何のためにということをしっかりとお考えいただいた上で、方法論も十分研究されて教育していただきたいものだと思います。
-山谷委員
 こういった教科書が今使われていることを知らない方も多いというふうに思いますし、違和感を感じる方もいらっしゃるだろうし、そうでない方もいらっしゃるだろうというふうに思います。
 もっと教科書を地域の図書館などに置いて、いろいろな国民各層の意見を聞いていくという努力が必要なのではないかと思います。限られた専門家の執筆者、そして検定を通ったとはいえ、やはりいろいろな社会情勢の中で、国民各層の意見を聞いていく、市民オンブズマン的なものをつくってみるというようなことを考えていくことも必要ではないかというふうに考えております。
 戦前戦後の国語の教科書をちょっとこの夏に子供と読み合わせをしましたら、子供がぼろぼろ泣いて読んでいる教科書がございました。
 「心に太陽を」という、これはイギリスのお話なんですが、昭和二十二年、六年の国語の教科書。イギリスのお話で、難破船が出た。少女が丸太につかまって朗々と、難破した人々を励ますために歌を歌うんですね。「他人のために言葉持て、唇に歌を持て、勇気を失うな、心に太陽を持て、」こんな文章なんか、涙を流しながらうちの子なんか読んでいるわけでございます。
 それから「稲むらの火」。これは昭和十二年、五年、国語の教科書。江戸時代、和歌山の五兵衛さんという庄屋さんが、津波が来ることに気がついた。自分の高台の刈り入れたばっかりの稲を全部燃やして、下に住んでいる村人たちに注意を喚起して、避難させたというお話でございます。
 それから「ハンタカ」という昭和二十二年、二年の国語。物覚えの悪いハンタカという弟子に、お釈迦様が、汚い言葉は使っちゃいけないよ、これだけを繰り返し繰り返し教える。みんながばかにしていたハンタカだけれども、これを守ってきれいな心になって高い精神の境地に至ったというような話。
 国語の教科書も、もうちょっと自己犠牲とか宗教的情操心をテーマにした、今は多分、九条の二項でひっかかっているのかもしれませんけれども、もう一回見直してみるということも必要ではないかというふうに思います。
 抑圧された人生を過ごしてきた方が多い中で、自己解放とか自己決定権の重要さを主張するというのも非常に大事ですけれども、やはりそのバランスの中で、自己犠牲の美しさというような献身、それから上に立つ者のやせ我慢みたいなものを伝えていくというような教材の選び方があってもいいのではないかというふうに思います。
 最後に、この十月十九日、青少年育成推進会議、これは内閣府でございますけれども、青少年を取り巻く環境の整備に関する指針というのが申し合わされまして、国、地方公共団体の責務、関係業界への要請なども含めて、今後この指針に沿って内閣府が関係業界などに対して要請文書などを送付するというものでございますけれども、平成十二年、町村文部大臣が、放送、映画、ビデオ、コンビニの各業界に、自主規制の徹底を要請いたしました。
 私、民間におりましたときに、放送と青少年に関する委員会というところに属しておりまして、性や暴力のひどい番組をチェックするというようなことをやっておりましたし、月に二回、性的な表現のひどい漫画や雑誌をチェックして指定図書にするというようなこともやっておりまして、大変な作業だったんですけれども、指定しても売り逃げとか売り得とかが現実です。
 それから、今コンビニは全国で五万店ぐらいございますけれども、東京都でいえば、九六・四%のコンビニに有害図書が置かれているというような現実もございます。これは、要請文書を送付するぐらいじゃ全然だめで、町村大臣があれだけ頑張っても、今は全く、むしろ後退したというような状況でございますけれども、遠山文部大臣は、これをきちんとフォローアップする、あるいは状況を公表する、委員会の中に保護者を入れていく、それから、具体的に現場を見ていただきたいというふうに思いますけれども、この青少年の健全育成に関してどのようにお考えか、お聞かせいただきたい。大臣と政務官と、済みません。
-遠山国務大臣
 この問題は、もちろん自主規制に絡む問題でして、一概に、簡単に済むような話ではないと思いますが、御指摘のような趣旨は我が省のこれまでとってきた態度でございまして、その徹底に向けて力を尽くしたいと思います。
 では、ちょっと補足をしていただきます。
-池坊大臣政務官
 私も今まで、山谷委員と同じように、青少年をどのように有害環境から守るかということに心を砕いてまいりました。有害環境から子供を守るためのプロジェクトをもう立ち上げまして、今おっしゃいましたように、コンビニでどのように本が売られているのか、あるいはビデオテープはどんな種類でどうなっているのか。例えば、御存じのように青少年が見てはいけないのはちゃんとシールが張ってございます、シールが張ってあるからこそ子供たちは見たいのかもしれませんが。それから、血が多く流れるのは、血が多く流れますというようなことも書いてございます。関係者には具体的に、いろいろな配慮をしてほしい、コンビニだったらばよく売れる商品の隣にそのような有害図書は置かないでほしいというような要請も今までもしてまいりました。
 私は、何よりも大切なことは、やはりPTAの保護者の方々のお力をおかりしながら、PTAの方々と各省庁とそれから私たちが力を合わせながら、二十一世紀の宝である子供たちを有害から守っていくことだろうと思っております。PTAは、御存じのようにテレビのモニタリング調査などでいろいろな力、これはよくないからやめてほしいとか、それはテレビ局だけでございませんで、コマーシャル、スポンサーになっている会社にもそのようなお願い等をしてくださっていることがございますので、これからもそれを連携しながらやっていきたいというふうに思っております。
 ちなみに、今のお話でございますが、有害から子供たちを守るとともにいい環境に導いていくことも必要だと思っておりますので、私は全国で読書推進プロジェクトチームの座長として、いい本にめぐり会いましょうという運動を大変地味ながら展開いたしております。本を読むことによって、先ほどもございましたように自己犠牲だとかあるいは宗教心、宗教的な精神を醸成したり、正義感とか公平さとかいうことを学んでいくと思います。ですから、子供たちを有害から守るとともに、そういうことへの規制と、それからいい方向に結びつけていく、そういうことの連携がやはり必要なのではないかと私は思っております。
 これからも、PTAの方々とともに、テレビのモニタリング等々で力を合わせながら、そのような、出版界、テレビ局、またテレビゲームをつくっている業者等々へ連携を図りながら要請し、強く働きかけていきたいと思っております。
-山谷委員
 自主規制のいろいろな実態というのをもう一度調査し直して、健全育成に頑張っている団体の支援などを含めながらきちんと継続的にフォローしていっていただきたい、実効性の上がる活動をしていっていただきたいと思います。
 時間が参りましたので、どうもありがとうございました。

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