東京近郊を仲間の議員と回った時、彼が“高校で東京の学校に進学したら、家がくみとりトイレなのは自分だけで衝撃をうけた。家の近所は皆そうだったので…その時からふるさとの暮らしをよくしたいと市議、県議、国会議員となりました。落下傘とは覚悟が違う。下水の整備をはじめ頑張ってきた20余年。ふるさとのために国のために働きます”と話す姿の横で、私の胸に戦後の急カーブの復興がよみがえりました。 |
ふるさとの福井で育った時はわが家はもちろんくみとりトイレです。祖母の家はちり紙でなく、使用後のいろんな紙を切ってトイレで使っていました。多くの家がそうでした。 |
トイレが外にある友人もいました。中学になって市街は下水が整備され水洗となる家があちこちに現れ、わが家もリフォーム。水が流れた時は夢のようでした。水が流れるたびに、手を叩かんばかりに感謝したものでした。 |
その後、父が仕事を失い、借金をかかえて上京。母は内職のしすぎで失明。引っ越し先は雨もりするくみとりトイレ。私はくみとりトイレの清掃係となりました。いくらきれいにしても限界があり、悲しかったものです。 |
今、小学校でウォシュレットを入れてほしいだの、幼稚園でエアータオル(手を温風で乾かす装置)を入れてほしいだのの要求が保護者から出る時代となりました。たった50年でこの変化です。 |
有難いと感謝する心が生活の場から減っていって、人々の心は不平、不満の不浄の場となりやすくなりました。 |
皮肉なことです。 |
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平成21年8月20日 山谷えり子 |