メッセージ(バックナンバー)
 昭和59年11月5日に62才になったばかりで入院した父(山谷親平)は、11月28日に帰らぬ人となりました。
 11月の寒さは紅葉と共に一日一日と進みますが、毎年母と私にとっては辛い思い出の一ヶ月です。今年も母と早朝に墓まいりをしながら(麻布の東京タワーの見える福沢諭吉先生の隣のお寺です)思い出を話しながらゆっくりゆっくりお墓をみがきました。
 入院を控えた前日、私は日記にこう記しています。
 ラジオで父は「親になるということは運命を質に入れること」と語り、こんな風に話す。

昭和59年11月4日
 十三歳と十歳と七歳の三姉妹が、母親を探して東京竹の塚周辺のバー、キャバレーを一軒ずつ訪ねて捜し歩いている。なんでも、父親が借金を作り、母親がキャバレーで働きはじめたが、それ以来夫婦ゲンカが絶えず、ついに両親とも家出をしてしまった。
 児童福祉家庭相談員が「施設に入るか」と聞くと、「姉妹がバラバラになるのはイヤ。両親がいるのに、施設に入ることはできない」と、十三歳の長女が答えたというサンケイ新聞の記事を読んでのコラムで、父はこう語っているのである。
 「十三歳の少女が一番スジの通ったことを言ってますね。親になる資格のない奴が、親になったことに問題があります。親というのは、子どもが大きくなるまでは自分の運命を質に入れているようなもん。子どものために欲望をおさえなければいかんよ。結婚することは権利が半分ずつになり、義務が倍になるということだ」
 父は、私が生まれてから大きくなるまで、実によくしてくれた。もっと我がままに振舞いたい時もあったろう。どんなに忙しくても、いてほしい時にはスーパーマンのようにひとっ飛びで帰ってきた父。それに対し、二児の母親となった私はまだまだ我がままで、甘ったれているところがある。
 長女と長男の寝顔を見ながら、
 「ジージは、ママをもっとしっかりさせようと思って、入院するのかしらね。ちゃんと出てきてくれるのかしらね…」と、つぶやく。
 最後のほうは、いつのまにやら長い長い溜息となってしまった。

 入院中も、父は意識のある間は、ドクターや看護婦さんにアダ名をつけ、ジョークをつとめて言っている。
 注射がヘタで、何度もブスブスと失敗してはうち直し、私を怒らせたドクターに対しても「はいはい鬼軍曹さま…耐えます、大丈夫です」と笑わせるのだった。

昭和59年11月10日
 ベッドの脇には、歴史小説と週刊誌数冊が置いてある。病室の電気スタンドでは暗いからと、わざわざ家からワット数の高い電球をもってきて取り替えるほどの読書熱。
 入院中も「今日は○○誌の発売日だから買ってきて」と、読書は欠かさない。ノートも新しく二冊買い求める。何を勉強し、何を書きとめるつもりなのか…ほどなく消滅を運命づけられている脳のしわに、さらに新しい何を刻みつけようとするのだろう。
 父の手帳に“明るい未来”というメモがある。
 「明るい未来。ホープフル・フューチャー。知力をその限界まで発揮させる。二百歳目標の長生き。面白くて価値のある仕事と活動。遺伝子操作を通じての病気の克服―」
 六十二歳で死ぬことを定められてしまった父だが、枕元に本を積み、まさに知力をその限界まで発揮させようと、最後の時を生きていた。
 午後、点滴の失敗で、腕が丸太のように腫れあがる。
 母は「かわいそうに、かわいそうに」
 私は、思わず看護婦さんを睨みつける。
 だが父は、「体を鍛えておいてよかったなあ。鍛えてなきゃ、とっくに参ってるとこだ。えりちゃん、普段の鍛錬は大事だよ」と、誰も責めようとしない。

 とある。
 昭和59年11月18日の日記には

 この日、長女は習いはじめたクラシックバレエを初めてジージに披露。
 “アラベスク”や“ピルエット”など、とても上手に演じてみせる。父に見せたいがために先週から習わせはじめたバレエだが、喜んでもらえてよかった。残された時間を少しでも多く、無邪気な笑いで飾ってほしい。
 実は、父は私が生まれた時、将来宝塚歌劇団に入れようという途方もない夢を描き、三歳から私にクラシックバレエを習わせた経緯がある。
 しかし、五歳の発表会の日、会社をサボって見にきた父は、舞台をひと目見るなり、「ダメだ。宝塚はあきらめた」と苦笑したという。
 長女のバレエを見て、父はさらにそんな日々のことも思い出してくれただろうか。そして、口では「上手だね」と言いながらも心の中では、「やっぱり孫も宝塚はムリかなア」と考えたろうか―
 こんなことを一人であれこれ詮索しているうち、私も久しぶりに笑ってしまう。
 おっとりした長男は、いつもジージをうっとり見つめ、ほほ笑んでいる。そんな長男をいとおしみながら、父は、「男は目の光りが大事だぞ」と、愛情あふれるまなざしで長男をのぞきこむ。
 長男への遺言として忘れずにおこう。
 いつまでも名残りおしくて帰れずにグズグズしていると、外で“やきいも〜”の声。
 空腹を訴える子供たちにせかされ、やきいもを買いに外へ出る。
 日はすっかり暮れ、木枯らしさえ吹きはじめた冬の街。買い求めたやきいもを抱いてビルのかげに身を寄せ子供たち二人としゃがみこんで食べる。
 父は食べ物のにおいをかいだだけでも吐くので、病室で食べることはできない。それに健康な者が食べる姿をみると、たとえそれが孫であったとしても、父は余計に孤独になってしまうだろう。
「ママ、おいしいね」
「うん」
「ジージ、おびょうきわるくて、おイモたべられないんでしょ」
「そうよ」
「かわいそう。あんまりたべないと、しびそうになるね」
「長女三歳、長男0歳、ママ三十四歳、シンペイジージ六十二歳。みんな生きてます。死にはしないわ」
「ジージ、しばない…?」
 今日、この時間、全員生きているという“現実”が、もうすぐ“幻”となってしまう―。
 いやだ。いやだ。耐えられない!私は駄々っ子のように地面につっ伏したかった。

 11月28日、帰らぬ人となった父。
 担当していたニッポン放送の父の番組は追悼特集を1週間にわたってしてくれました。その初日の父のメッセージは“男の生き方”を語ったくだりでした。

 「男の人生というのは、何かやっているということじゃないでしょうか。奥さんや子供さんが“うちのパパの人生”あるいは“うちの親父の人生”と、パパや親父が死んでから語り合える何かを残す。何も重役や社長、国会議員になる必要はない。
 しかし、うちのパパは偉かった。真面目だった。会社の発展につくしたといった何かを女房や子供、友人に感じさせる。これが男の人生という感じがします。
 私の好きな言葉“継続は力なり”というのがあるのですが、やはり人生というのは挑戦した目標に向かって継続する。何かそんな感じがします」

 「継続は力なり」。
 …私は「父はマスコミ戦線で壮烈な戦死をしたのだと思います」とテレビインタビューで答えている。

 生前の父は、よく“おつりの人生だよ”という言葉を口にした。
 加藤隼戦闘隊で、毎日のように戦友を失っていく南方での日々を過ごしてからは、そのようにしか思えなくなったという。
 将棋をさしていた相手が、一時間後にはもういない。昨日隣のベッドに寝ていた友がもう永遠に帰ってこない。
 父は、絶望的な悲しみと虚しさの中で、この時、男として腹をくくったのだと思う。
 「自分らしく、やることをやっていこう。この世に生まれて自分の役どころを果たさないのは詐欺的行為だ。早く旅立ってしまった者たちの身代わりとしても、生ある間は、自分をさし出そう」
 おつりだから…と、捨てバチになるのではなく、おつりだから腹をくくって真剣勝負をしていこうと、この時思ったのではないだろうか。
 ハンス・カロッサの陣中日記にこのような一節がある。
 “我々のうちの何人も長い生命を授かつていない様に思はれる―それを悟ろうではないか。みじめな偶然が我々を捉へて、無意味に肉体を砕いてしまわないうちに、未来の知られざる精神に、我と我が身を意識して喜んで捧げよう”
 …私も、そのようにこの身を捧げたい。

 あの日から、25年が過ぎました。

平成20年11月16日 山谷えり子

<< 前のメッセージへ 次のメッセージへ >>

山谷えり子事務所
〒100-8962 東京都千代田区永田町2-1-1 参議院議員会館611号室
TEL:03-3508-8611/FAX:03-5512-2611