メッセージ(バックナンバー)

 「近衛家の太平洋戦争」(NHK出版)を読みました。
 1937年45才で首相となり3度にわたり内閣を率いた近衛文麿。そして文麿の長男で戦後ソビエトに11年間抑留され、1956年10月収容所で41才で亡くなった文隆氏(西木正明「夢顔さんによろしく」アルハンゲリスキー「プリンス近衛殺人事件」劇団四季ミュージカル「異国の丘」のモデル)。その曾祖父と祖父の思い出を34才の近衛忠大さんが書いたものです。
 古いつながりを持つ中国と近衛家、満州事変から書きおこし、忠大さんが実際に中国、文隆留学地のアメリカ、そしてシベリアへと歩いて歴史認識を深め、米国国立公文書館の資料に目を通し、当時の状況を知る人を訪問したり、改めて大叔父や大叔母(文麿の長女、次男)親戚に話を詳しく聞き直してまとめたものです。
 34才の自分には、まだまだ歴史認識の甘さがあるのではないか、当時の状況、国民感情はとてもつかみきれないと戸惑い、立ちどまり、謙虚に思いあぐね当時の近衛文麿批判(優柔不断など)にも耳を傾け、書きつづった本に、私は新鮮なものを感じました。
 というのも、私自身そのような文麿総理批判を記者の先輩たちから聞いておりましたし、また、今昭和27年〜29年の国会の議事録を読み返しながら、あの戦争と戦犯問題をふり返りなおしているからです。記者時代にはつかみきれなかった政権基盤の上に乗って運営しなければならない生身の政治家の生理と宿命といったものが、私に迫り直してくるかのようです。
 本は近衛総理がルーズベルト大統領とホノルルで直接会って日米開戦を回避しようと考えたこと、第三次近衛内閣総辞職後、東条英機内閣での行動、世間からの批判、また本人も認めているように政治の舵取りのまずさが戦争への流れを加速したことへの痛み、1945年2月、陛下に直接終戦の必要性を訴え、共産革命の危険を上奏した「近衛上奏文」、戦時中にあってどのような方向性なら天皇制維持が可能かをさぐり、戦後は国体護持のため憲法草案作成に走り回ったことなどが迫力ある筆で記されています。
 また中国より近衛を戦犯リストに、つづいてGHQもリストとして名をあげるように言われ、近衛自身が覚悟を決めていった時の様子。最後の夜はたくさんの来客に囲まれ、世間話をし、しかし2人の親しい人にだけは「裁判は拒否する」と伝えたこと。
 息子通隆氏が父が自害するのを恐れ、ピストルや毒物を探そうとするが、文麿の妻千代子は文麿の考えるとおりにするのがよいと半ば自決を予見していたかのようであったというくだりや、通隆が何か書いてと頼み、事実上の遺書となった「……日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から、今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思ふ。……戦争に伴ふ昂奮と、激情と、勝てる者の行き過ぎた増長と、敗れた者の過度の卑屈と、故意の中傷と、誤解に本づく流言蜚語と、是等一切の所謂輿論なるものも、いつかは冷静を取り戻し、正常に復する時も来よう。この時始めて、神の法廷に於て、正義の判決が下されよう。」を記したこと。
 著者の忠大さんに大叔父の通隆さんは「午前2時、文麿の寝室を離れる前に、“明日(巣鴨へ)行っていただけますね”と念を押すと、いやあな顔をした。あのときほどいやそうな顔をした父は見たことがない」と語られたくだりなど胸に迫るものがあります。
 1945年12月16日、翌朝6時家族によって眠るようなおだやかな最期の表情の姿が認められ、文麿死去(54才)。翌年、日本国憲法公布。
 そして、今年戦後60年。東京裁判とは何だったのか、憲法が制定された時代とは何だったのか。歴史の見直しは始まっていますが、まだなかなかにといった状況でしょうか。昭和54年大平総理は国会で、「A級戦犯あるいは大東亜戦争というものに対する審判は歴史がいたすであろう」と答弁しています。
 独立前後の議事録や戦犯釈放国民運動の新聞記事、そして国会での赦免決議、また当時の法務総裁から各省庁機関に徹底が図られた文書で「戦争裁判の刑は国内法の刑」ではないことが明記されている逐条解釈などを、私が、読み返していることを知った国会議員の方々からコピーを下さいと言われもします。
 情報公開も大分なされた今日、このへんで戦中・戦後の整理をしないと、という思いを改めて深くしております。

平成17年1月25日 山谷えり子

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