メッセージ(バックナンバー)

夫と歩いた春の宵
「正論」平成16年5月号
 桜の花が満開の児童公園で、父親となったばかりの夫がテレくさそうに、誇らしそうに長女を抱いて立っている写真がある。
 今から二十二年前の春の日で、それからほぼ年子で三人の子を授かり、泣いたり笑ったり、鼻をすすったりしながら子育ての日々を送ってきた。
 幼子が輝く瞳で、雲の流れを、花の揺れる様を見つめる横で、私もまるで生まれて初めて花や風を見知る人間のように息をのみながら生かされてきたように思う。花吹雪の中をくるりくるりと回り「春のステージのはじまりだぁ」と歌った長男は、作詞作曲をする大学生となった。そして毎年この季節になると「新クラスはどんなかしら」と案じていた末娘はこの春で大学生となり、私は朝の弁当作りからとうとう淋しくも解放されてしまった。
 十年前に引越ししてきた現在の家は、西に富士山をのぞむ読売巨人軍の練習場があった多摩川のほとり。河原にも住宅街にも桜の花が咲き、少し上流へと進めば、そのあたりの御用商人として四十七の蔵を持っていたという岡本かの子の生家ある。そこには「年々にわが悲しみは深くしていよいよ華やぐ命なりけり」の碑が建てられている。
 私は時間があれば、川に遊び、土手に寝転び空を眺めて飽くことを知らないのだが、桜の季節到来ともなれば、夫を毎日のように花見の散歩に誘ったものだった。そして文学オバサンしたり顔で、花や緑にまつわる小説や詩歌の話をしたものだった。
 「“奈良七重七堂伽藍八重桜”、“前髪もまだ若草の匂ひかな”さすが芭蕉センセイ。音がいいわね。春は花夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷やしかりけり(道元)。 形見とて何か残さん春は花、山ほととぎす、秋はもみじ葉 良寛 。日本に生まれて良かったなあ。ポーランドでは春は処女、夏は母、秋は未亡人、冬は継母と四季を表現するそうよ。生々しいでしょ。どう思う?」
 なんて私がおしゃべりを続けても、気のいい夫は、同じ話を「何回も聞かされた」と言うでもなく、春の宵の妖艶な樹の下を無言で歩き続けるのだった。
 今年は、もうそんな風には歩けない。昨年の夏、衆議員のイラク調査から帰国した成田空港で、長女から夫が事故にあったことを告げられ、最期の別れを告げるまでの何とあわただしかったことか。私が病室に駆けつける直前まで、私の名をびっくりするほどの大声で呼び続けたというが、私が病院に着いた時にはもうその声を聞くことは出来なかった。
 林家三平師匠のおカミさん、海老名香葉子さんと講演で地方に行ったとき、香葉子さんがポケットから小さなハーモニカを取り出して吹き始められたことがある。吹き終えられたあと、何と反応してよいか戸惑う私に、チャーミングなエクボを見せて「子どもたちも弟子たちも良くしてくれますが、師匠を亡くして、どうしようもなく淋しくなるときがあるんですよ。そんなときのためにハーモニカをポケットに入れて持ち歩いているんです。夜中にふと目が覚めて淋しいこともありますし」と、言われた。わが家の子供たちが「お父さんが、最期の意識の中で呼びつづける程、世界一大切だったお母さんを守るよ」と勿体ないことを言い、親孝行してくれるたび、私は香葉子さんのあの時のエクボをふと思い出す。
 「二十代は愛で夫婦、三十代は努力で夫婦、四十代は我慢で夫婦、五十代は諦めで夫婦、六十代は感謝で夫婦、やっと夫婦です」と先輩から教わったが、共に二十三回しか花見が出来なかった夫とは、この先この世とあの世で“感謝で夫婦”の花を見、新緑を愛でていくのだろうか。
 匂やかな闇は、この世もあの世も、千年先まで霞ませてしまうかのようである。

平成16年4月 山谷えり子

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